以下の文章は、2008年12月20日(14:00~15:45)に東京学術センターにおいて開催された行動経済学会第2回大会特別セッション「行動経済学は政策に役立つか?」(司会大竹文雄さん、パネリストは岩本康志さん、齊藤誠さん、松島斉)において私がしゃべった箇所をすこし修正したものです。報告タイトルは「行動経済学による『監視なき』監視社会」です。報告後2度私がしゃべった箇所も公開します。当日つかったスライドも公開します。中野聡子明治学院大学経済学部教授、新後閑禎京都大学経済研究所教授に感謝します。

 

報告

「行動経済学による『監視なき』監視社会」

 

東京大学の松島です。私はゲーム理論とマイクロエコノミクスのセオリーを研究しています。行動経済学については、理論よりもむしろ応用の研究をする際に関心をもつようになり、行動経済学にかかわり続け現在まで来ています。私としては、行動経済学そのものは経済学の今までの研究のスタイルと非常によくフィットしていると思っており、対立するものではないという認識を持っているのですが、政策に利用するという場になったときに、私にとっては意外に思える意見が出てきたので、もっとも最近は少し治まってはいますが、その辺を整理したいと思います。

私の報告のタイトルは、一見過激にも聞こえるのですが、「行動経済学による『監視なき』監視社会」です。これを経済学の「分析の対象とする」ということについて説明したいと思います。監視なき監視社会というものがいいとか悪いとかということではなく、行動経済学者の幾人かがこういうものを目指している、ということをまず説明したいと思います。

三つポイントがあります。まず、行動経済学それ自体は、経済学における「合理性」の議論にすでに学術的に貢献してきていて、これからも貢献していくでしょう。これは非常に重要な貢献を含んでいるし、また同時に難しい課題をも提供しています。

もう一つ、「政策へのアプローチ」ということを考えますと、これは少しニュアンスが違ってきます。これは経済学者が今まで暗黙に分析してこなかった問題を含んでいます。ですから、それ自体に経済学の「分析対象」としての意味があるだろうと考えます。

3番目は、2番目の問題を扱うと、人々が社会的影響(ソーシャルインフルエンス)を受けるケースを考える必要が出てくることです。社会心理学者は社会的影響という言葉を使うと思いますが、経済学では今まであまり使いませんでした。しかし、経済学者は今後それを考えるべきでしょう。そして人々が社会的影響から逃れているケースをも分析するべきでしょう。両方のケースを分析すれば、政策的にいい判断を得るためのきちんとした骨組を作ることができるだろうと考えます。そうすると、今まであいまいにされ暗黙に前提とされた「自律的個人」というものが解明されていくであろうと、私は展望します。

 

さて、まず「経済学とは何か」ということから説明します。スティグリッツによるポピュラーな教科書の第1章を開くと、「選択の科学」だと書いてあります。そして選択というものは、一義的な評価基準になっているとされます。なぜ「一義的」という表現になるかというと、選択のパターンの解明は実証分析によって繰り返し基礎付けられるという、研究の仕方についての確固たるプロセスを経済学者はちゃんと持っているから、ということです。正しくなければ実証的に検証して練り直す、という明確なステップをわれわれは持っているので、ある程度信用していいと考えるのです。

効用概念というものは、行動経済学が出てきたことで、二つの種類に区別される傾向にあります。一つは、経済主体の選択のパターンを記述するものです。これは選択的効用というもので、リビルドプレファレンスのようなものです。これを基にして、パレート効率性がウェルフェアの判断基準になります。もう一つ、快楽的効用という二つめの概念があります。経済学が基礎にするのは選択的効用の方です。

先ほど実証分析による基礎付けという表現をしたのですが、より詳しくは以下のような選択のパターン解明の手続きを指します。まず実証データがあり、そこから「規則性」を見いだします。この規則性こそが、経済学でいう「合理性」そのものです。私は、これが合理性のほぼ完全な定義の仕方だと理解しています。その合理性をモデル化します。ここには明らかにノーマティブ(規範的)な判断が入ります。このモデルから予測される内容を再び検証し、またデータに戻るというぐるぐる回りをやります。

その際に、この手続きの心臓部分、要するに、実証的に耐え得るかどうかということを常に突き付けられる部分、が「合理性」の特定の仕方、というところになるわけです。ここには明確に、行動経済学的知見が介入してきます。先ほどの齊藤先生のお話の中で出てきたものは、われわれ経済学者にとって、「こういう規則性があるのだ」というようなことは、宝のようなものと考え、モデルを立てていくのです。われわれはそれを何の抵抗もなく受け入れていくことができますし、実際そうなっています。最近は行動経済学的知見がないと論文としての価値がないと言われるまでになってきています。もう完全に私の体の中には行動経済学が入っているということになります。

もう一つ、快楽的効用という、選択的効用以外の効用概念を経済学で使うことがあります。それは政策決定に個人間比較を導入する場合に使います。この際に、快楽そのものは測定できないため、例えば所得や教育水準という代理変数を使います。この代理変数の取り方については、選択的効用と整合的であることが前提とされます。これについては、行動経済学とは意味あいの違う点があるので、後で詳しく説明します。

このような代理変数の使用は、政策決定者の選択パターン、つまり規則性の記述についての規範的条件に関連するものだと経済学者は考えます。これはどういう意味かというと、このような代理変数の使用自体は、経済学者にとってウェルフェア分析としてはあまり「価値がない」としていることです。これは実は、例えば特に日本の社会的選択理論の研究者が混乱しているのではないかと危惧していることなのですが、実態として、これは経済学のウェルフェアの基準になりえません。この辺のことが、行動経済学の議論の場合、さらなる混乱を助長している要因になっていると思われます。後で詳しく説明します。

 

今までは経済学の話で、これからいよいよ行動経済学の話をします。行動経済学の政策へのアプローチとして、いろいろ議論されているのは、私が命名するところの「パノプティコン・パラダイム」です。これはベンサムから名前を取っています。ベンサムは功利主義の祖の一人ですが、ベンサムが設計した監獄の名前がパノプティコンであり、それは一望監視システムによる監獄建築です。ベンサムは、このアーキテクチャーさえあれば監視人はいなくてもよく、囚人たちに選択の自由をも与えることができると考えました。選択の自由が与えられた監視人なき監獄こそが、ベンサムの考える「理想的な福祉国家像」ということになるのです。これは悪いともいいとも、何とも言えない話です。そして、行動経済学の考える政策というのは、限りなくこのパノプティコンに近いです。

 行動経済学者は、まず快楽には一義的な評価基準があるとします。これは経済学者と非常に異なっています。そして、適切に代理変数を特定でき、正確に計測できる可能性が、将来あるとしています。快楽的効用の代理変数の選別は、快楽という一義的基準に照らしてなされ、選択的効用と整合性がない可能性をも許容します。その結果、カーネマンのようなノーベル賞を取ったような人が、「個人のテイストは国家の方がよく知っている可能性がある。そのときにパターナリスティックな介入は重要だ」ということを94年ごろから言いいだすことになるわけです。最近は快楽の代理変数の計測に脳のデータを使うとのことですから、いずれ神経経済学、神経科学の記述が充実すれば、それによって経済学の概念は全部取って代わられると、一時期のキャメラーのような人はそういうことを言って、いったい何を言い出したことかと、びっくりしたわけです。

重要なのは、行動経済学における合理性の定義というのは、先ほどの選択パターンにおける規則性とは全然違う意味でなされていることです。それは、快楽的効用を最大化しているかどうかという意味になります。これは選択的効用と違いますから、人は選択的効用を最大化するので、「人は間違っている」と結論付けるのです。ですから、国家はそれを正す立場にある、これが福祉国家の生活向上ということに結び付く、ということになってきます。

これに対して、経済学の立場というのは、「快楽には一義的価値基準はない。それについて正しく代理変数を見つけることの根拠はない。計測技術の進展は期待できるだろうが、それがよい価値判断にはつながる保証はなにもない」ということです。さらに問題は、いったん代理変数が決まると、その変数の持つ「内在的な意味」が利用されるので、意味のすり替えが起きてしまうことです。こういうことは、意図的に、政治的に利用されるのだろうと考えられます。

そうすると行動経済学者は、経済学の立場から見ると、ある権力を持っている人が自分の意図を実現させるためのアプローチだと見ることができます。そして、これは現実的な話です。それは、人々が、その権威国家のようなものに期待していることなのかもしれません。しかし、経済学者はまずは一歩退いて、善し悪しを議論する前に、こういう状況を分析対象として見て、明示的に分析するべきだと思います。われわれ経済学者は今までこういうことを分析してこなかった。経済学が行動経済学の政策へのアプローチ自体を分析対象とするというのは、とても重要だと私は考えます。

 

簡単にそのアプローチがどのような構造かといいますと、プリンシパルとエージェントの関係ということになります。経済学では、プリンシパルとエージェントは契約の関係だと思っていました。つまり、メカニズムデザインの話でしたが、ここでは「ウィズアウト」なのです。ウィズアウト・メカニズムデザインです。プリンシパルがやることは、エージェントである国民に何か説得をします。そうすると、エージェントの間で「同調現象」が起こり、ソーシャルノルム(社会規範)ができあがります。それに従い、自ら服従と遵守という態度を表明するという構造になります。この場合の「説得」というところで、科学的お墨付き、遺伝や脳科学、生理学、あるいは倫理、経済学もそうでしょうが、様々な手段が援用されることになります。特に重要な手段として、行動経済学的手法というものが、ここで使われることになります。

パノプティコンというのはベンサムのアイデアで、私はベンサムを行動経済学者の祖と見ているのです。ベンサムの監獄の作り方というのは、監獄の中で強制を排除していき、選択の自由を提供します。つまり、リバタリアンパターナリズムを作るのです。それができると、監視人は要らなくなり、そのアーキテクチャーだけでみんな規律正しい行動を自ら取るようになるというのです。

ベンサムは人々が教会の支配から逃れるための具体的なアプローチを示したのです。ですから、これは怖い話に聞こえますが、私は大変な業績だとも思っています。ベンサムのアイデアを、監獄から病院、学校、職場と、要するに「公共の場」すべてに利用することにより、高度な福祉社会を実現させるというアイデアになっていきます。これはばかげた話に聞こえますが、私は福祉国家のイメージで、パノプティコン以外のモデルをなかなかイメージできないでいます。いろいろ考えていくと、このような話になってしまうのです。

このことを問題にしたのがミシェル・フーコーという人です。フーコーは『監獄の誕生』という本の中で、ベンサムというのは、とんでもない人だという話になってくるのです。フーコーは、ベンサムが意図したのは私が説明したような高度福祉国家ですが、これをやると「自律的個人」というものが失われる。フーコーは、高度福祉国家と自律的個人が明確な対立概念だと主張したのです。こうして、ここで、「このフーコーの警鐘に、経済学はどのように向き合うか」という問いに、われわれは直面することになります。

 

経済学者は、このパターナリズムの話を聞くと、自律的個人によるマーケットに委ねたらどうかと、条件反射のような対立案を提示しがちです。ならば、本来なら、われわれは、自律的な人とそうでない人、その両方を経済学者としてアナライズしていなければならない。ところが、実は経済学者はこれらをアナライズしてきた実績を持っていないのです。「経済学者は自律的個人を仮定する」と教科書の最初に書いてあって、それでおしまいです。これではフーコーが頭を抱えていることに対して何も答えられない。しかし、われわれ経済学者は答えるべきだと思います。

答えるやり方について、我々は再び選択パターン解明のプロセスの話に戻ることになります。経済学研究の歴史的な流れが関係します。先ほどのパノプティコン・パラダイムには、服従や同調、説得など、経済学で使ってこなかったいろいろなターミノロジーが入っています。社会心理学では総称してソーシャルインフルエンス(社会的影響)というそうです。ソーシャルインフルエンスをこのパラダイムの中で人々は受けているわけです。この状況を、今まで経済学はあまり扱おうとしてきませんでした。でも徐々に、とにかくデータを見てみると、齊藤先生の話のように、そういう影響を人々が受けているという事実を、経済学者が取り上げるようになってきています。そして、さらには、誰かがそれをコントロールして利用しようという話になってきました。誰かがコントロールしようという話になると、このコントロールの状況をも経済学者が分析対象にしなければいけなくなります。ここでスキップせず、我々はちゃんと分析しなければいけないのです。

もう一つは、このように分析を進めていくと、人々が社会的影響から逃れている、という状況をもだんだんわかってくるのではないかと思います。これが具体的にはどんなことか私にはまだよく分かりませんが、選択肢集合間の選択とか、フレーム間の選択とかいった、現実の状況においてどのように検証すべきかよく分からないような種類の選択パターンを、効用関数として記述する必要が出てくると思います。そうすると、これが実証分析の基礎に本当に乗っていると言えるのかどうか、はっきりしなくなってきます。よって、経済学者は行動の合理性や規則性に対し、「こういうスタンスの考え方で合理性を特定したのです」というような、フィロソフィカルなバックグラウンドをきちんと作っていかなければ、パターナリズムを利用したり抵抗したりすることについて、まともな議論ができないままになってしまいます。フィロソフィカルなバックグラウンドをきちんと作っていく、これを経済学の研究者はまさに目指すべきです。今日、何となくそのような傾向が出てきており、今の論争というのは、学者的には大変インタレスティングだ、というのが私の印象です。以上です。

 

補足のコメント(1)

 

例えば、政府が所得の再分配をするとか、税金をかけるとかします。国民はそれに興味があり大変影響を受けるものですから、それは重要な決定です。そういう意味において、政策そのものが必要かどうかという話とは全く関係ないです。大事なことは、政策判断の前に、経済学者が一歩退いて分析者の視点に立つことです。政府自体も経済主体の一つとしてモデルに組み入れる視点が必要です。

政策のことを悪く言っているのではなく、研究者はまず分析しなくてはいけません、ということを言っているのです。こういう政策を取るとこういう結果が出るということも分析するし、それだけでなく、政府の判断のパターンの実態をも分析するのです。例えば、「社会的厚生関数」という昔出してきた考え方というのは、個人同士を所得を通じて比較します。これはあくまで政策担当者の判断の仕方のパターンを説明するものです。経済学者は、それを分析の対象として見ることのできる「独立した」視点をもたなければいけません。その上で、「これはいい話ですね。よくないですね」ということを、政策に助言する立場として言えばいい。その前のステップこそが、経済学ができるもっとも大事な役回りなのです。

現在、この前のステップというところが大きな問題になっています。なぜかというと、パターナリスティックな仕方というのがだんだん重要で、それが政府に要求されるようになってきている、本当にそうなっているかどうか実のところ私には分からないのですが、仮にそうだとした場合、経済学者は今すぐに何か助言できるような材料を持っているのかというと、あまり持っていないのです。それは、例えば、こういう認知的バイアスがある、社会的なインフルエンスがある、などといった状況の分析は、とても難しい問題だからです。そこに規則性があり、それをみんな何となく分かってはいるのですが、それを一般化できないし、このコンテクストだとばっちりあてはまる、ということもなかなか言い切れないでいます。

例えば、先ほどの地震リスクの場合だと、人々はリスクが低いものを過剰に高く評価している、といいます。この話は、行動ファイナンスをやっている方々には、プロスペクト理論などを通じて、なじみのある見方ではないかと思います。ところが、金融システムのシステムリスクなどを考えると、例えば銀行の倒産といったリスクに対しては逆に、過小な評価をしているのではないかと思われるところがあります。そうすると、そのリスクが少しでもあり、ぱっとリスクが広がってしまうような状況に対して、普通に、普通にというのは期待効用の最大化ですが、それで人々が判断してくれれば阻止できたにもかかわらず、危ない金融商品を売買してしまうということがあるのではないかと思われるのです。

ただ、私はここでかなりいい加減なことを言っていますから、もしかしたらそうではないかもしれません。しかし、低いリスクを高く評価するということが人間の常に本来の姿であるとする見方については、少し考えてみれば簡単にその反例が見つかってしまいます。幾つかことなる属性があり、この属性は些細だからもう考慮しない、というようなことは、人は一般にやるかもしれません。たくさんある属性のうちの一つのリスク、倒産リスク、はたいしたものではないから切ってしまいます。そうすると、これが0.1%をゼロにしてしまうということになると、後々とんでもないことになってしまうということがありえます。経済学の中で、こういう話については近年ぼちぼち議論がでています。しかし、ほかの考え方とどういう関係にあるかということがまだ分かっていません。多くの人がこのことで頭をひねり、今日までよくわからずにずっときているという状況ですので、われわれは政策的な材料を十分に提供できる立場になっていません。ですから、これを経済学の研究者がもっとやることが必要です。それがまず最初であり、マーケットが大事だとかそうでないとかいった話はそれから先のことだと私は思っています。

 

補足のコメント(2)

 

行動経済学者の中で、齊藤先生のように、かなり具体的な問題から行動経済学に入ってきた人というのは多いと思います。しかし、そうではない人たち、いろいろいるのですが、その一つのタイプが、私はゲーム理論をやっているのですが、ゲーム理論における「ナイーヴな」合理性の仮定の仕方を批判する実験をやってきた人たち、それはまた結構多いという印象があります。

例えば、「最後通牒ゲーム」というゲームがあります。何か分配の提案をして、気に食わないと「ノー」と言い、気に入ると「アクセプト」します。「ノー」と言ったらその話は終わりという交渉の状況です。ナイーヴに合理的な理論上では、「儲かればいい」という人間像でモデルを立てるということですが、どのような提案でも少しの分配があれば「アクセプト」と答えることになります。「ノー」と言うと、その分配は全部流れてしまうということなので、どんな不公平な提案でも「アクセプト」です。ですから、先手は後手に対して非常に強いアドバンテージがあることになる。しかし実験をやると実はそれほどでもないのです。実験室での先手は、後手に「ノー」と言われるかもしれないので、遠慮がちに提案をしています。また、後手の被験者は実際に「ノー」と言うことがあるとのことです。これについては嫌というほど大量の実験報告があります。多くの行動経済学者が実験し、みんなそのように報告してきているはずなのです。にもかかわらず、「サイエンス」などを見ると、このような互恵的な報復の態度というものが「神経経済学によって初めて解明された」という表現になっていて、なんともびっくりするのです。

すると、ついこの間までこの実験をラボでやっていたような人たちまで、同じように口をそろえて「神経経済学によって初めて人間は合理的ではないものを解明した」という言い方になってきたのです。なぜこのようなことを言っているのか。前から知っていたではないか。どうも感じとしては、物理的なデータに基づかないものは証拠として認めないということを主張したいようなのです。これは「サイエンス」や「ネイチャー」で、どういう人たちが経済学的な論文を審査しているかということを考えてみると、経済学者はそのレフェリーには関与していなかったのだと私は想像しています。もっとも今ではだいぶましになっていると思いますが。

脳データに基づく行動との関係が解明されるということは、経済学者ではない人たちにとってとりわけうれしい話のようです。つまり、脳研究のエリアがほかの分野にまで広がるからです。経済の問題を、選択の問題ではなく、神経科学や生理学のプロセスの問題として見る、という話になってくると、「これはおれたちの飯の種になるではないか」という話になってくるのです。飯の種になれば論文がたくさん書けますし、分野が大きくなります。そうすると、ノーベル経済学賞が取れる、という話にもなってくるのです。ノーベル経済学賞を取るのは別にどうでも構いませんが、そのときに経済学の「選択の科学」自体を無思慮に攻撃するという態度は、どうも許し難いです。

ただ、研究者として少し退いて見ると、脳科学の研究というのは大事なエビデンスなのです。今は経済学に全然結び付いていないと思うのですが、こういう証拠というのは、どんな動機であれ、蓄積されるというのは宝なのです。ですから、仮に邪悪な動機で研究している人がいるとしても、少し我慢すると、いずれすごく優秀な、まっとうな精神を持った人が出てきて、本当に経済学が変わってしまうということもあるわけです。

われわれは、「サイエンス」などのデータを突き付けられ、よく分からずに、つい知ったかぶりしてします。もっとも、経済学者に話す分には「おれの方が少し知っているから」という感じになるだけの話ですが。一方、脳研究者の実態はというと、やはり同じような感じであり、経済学のケの字も知らないですまされてしまう。このような状況でずっといくというのはとてもよくない。全部が見渡せるような天才が出てくれば話が違うのですが、それまでは何かとねちねち批判しながら、しかしデータの蓄積だけは大事にするという二足のわらじを履くような態度を続けた方がいいのではないか、などと迷っています。